理解というのはたいていunderstand と訳されるが、under standとは果たして語源的にどういう意味なのだろうか?それは大雑把に言って足元に落ちてる何かを上から見ているという認識のイメージである。つまりポトリと落ちた足元にあるリンゴの実を見ているような。
では理解はどうかというと、理、コトワリはそのリンゴの実であるとするならば「解」という漢字にはどうしても「解剖」だったり「解答」だったり、細かく分けていくニュアンスが含まれている。
つまり理解という言葉に内在される意味には、りんごの皮を剥いて、「あ、中は赤くないんだ」「ジューシーなんだな」など、“よりそのものの中に入る認知の仕方”に対して、Understandだと「表面は赤い実だ」、もしくは「赤い実だ」にとどまり、それも上から見ていて、距離感、解像度的には、理解のそれとは認知の深みが違うと言ってもいい。
ここで問題となるのはこのような各国言語のひとつひとつが持っているその語源の潜在的意味合いが、いかに知らず知らずのうちにその各国言語使用者の思考回路に潜在的に影響を及ぼしているか、という点と、国際化が進んだ今その言語言語の“表面的のみの”翻訳によりより深いシナジーには至らず乖離が起こる恐れが見え隠れし始めているという点だ。
ただもう解決策は簡単で、そのような語源的潜在的乖離というものがどうしてもあるということを踏まえた上でのコミュニケーションが当然になればいいだけの話だ。
もっというと日本語など主語がなくても成立する文章ともなると、単純に言語レベルの話ではなく、文法レベルではもっと深い潜在的作用があるだろうから、「だけの話」が難しいのはいつの時代も一緒である。主語述語の順番然り。
さてちなみにこの理解する、understand という行為は、その距離感およびわかろうとする解像度の違いやスタンスにの違いはあるにせよ、「ある対象を認識する」という意味では一緒であって、では信じるということは理解するとはどう違うのか。
それはリンゴの実を初めて見たけど近くまで行ってしゃがんで薫ってみたら蜜のような匂いがして手にとって思わず食べた。ということだ。
果たして漢字文化圏以前に、「理解する」というような言葉があったのだろうか。知る、分かる、、知るは占める、つまり占領するというニュアンスのある漢字文化圏からのことばで、分かるも、分、言わずもがなである。
そこでひとつ気になるのが、さとる、という言葉である。一見、というか十中八九これは仏教用語だから古代ではないだろうと考えるだろうと思うが、果たして、もともとあった古代語とうまくこの仏教用語が合致したとも見れる。
というのも仏教用語の悟、ゴはサトルとは読まないわけで、このゴ、をどう既存の日本語に当てはめようか考えたところサトルが選出されたという塩梅である。
ではこの悟、ゴ、がなぜサトリ、と読まれたかだが、それはこういう具合である。果たして仏教においての悟りとはその対象との境界を無くすこと、瞑想やそのメソッド、ワンネスなどとのことは置いておいて先に進むが、つまり梵我一如という境地についての日本古代語の訳が、「サトリ」であったということである。
どういうことか、簡単で、サ、を、トル、から、サトル、なのである。自と他の。つまりそこには境界がないから自も他もないのである。口に入ってモグモグと食べているそのリンゴは、リンゴか?リンゴだというのなら、口から出して他の人が食べられるか、それはもうあるものがあるものを食べているということであるのでそれはそれでそれなのである。
しかしながらサ、も、トル、も古代といってもせいぜい北イスラエル滅亡後のことだとは思ので、そう昔のことではないだろう。サ、もトル、という概念もなかった時代もあるだろうから。